福良天満宮について

 

御祭神の歴史は1100年以上昔の事

福良天満宮の歴史は、菅原道真(845~903)が59才にて延喜三年(903)太宰府にて御神退され、牛に引かせた亡骸を不動の地太宰府天満宮にお祀りされた後にはじまります。
菅原家一氏族が周防国(今の山口県)大畠を支配し菅原姓を大畠姓に改め、代々守護していた天神像を天正年間(1590年頃)豊臣氏全国征伐の難を逃れ、豊後国海部郡福良荘に勧請し手厚くお祀りされました。

高僧や藩主の篤い崇敬により臼杵に鎮座

慶長初期(1600年頃)、高僧円誉上人が平清水に龍原寺(三重塔のある寺)・福良村小野路に称名寺(現:福良天満宮)を開山します。
慶長十三年(1608)、臼杵稲葉藩主二代目典通公が鷹狩に出かけた際、愛鷹の行方が不明となり、鎮南山の麓におまつりされていた菅原神に願を掛けました。忽ち少し離れた福良丘の松に飛び帰り典通公は宮地をまず宮畠に移し、「呼鷹殿」と称す神殿を称名寺(現:福良天満宮)内に建て、竣功後今の宮地に移し菅原姓大畠氏善知が住職として天神に仕えました。つまり善知は天満寺の開基とされています。

天満寺から天満宮へ(仁和寺より寺号を賜る)

第七世菅原姓大畠氏智岸は菅原姓藩の騎士芝崎甚三郎宗利の三男であり、改宗をはかり真言宗に改めます。
仁和寺より高い寺号を賜り菅生院と号し、のち菅勝院天満寺・梅林山天満寺、天台宗となり瑞光院天満寺と称しました。同時に稲葉一鉄公以来歴代稲葉藩は菅原道真公を尊崇していたことより厚い崇敬を受け、その証として歴代稲葉藩主の奉納した額や宝物が現在まで残ります。
明治元年、神仏分離令発令により神として祀られ天満神社となりました。住職は三重町内山に退き、神職として高見家・(代務鶴峰家)・菊川家・雄嶋家と代々受け継がれています。昭和になり福良天満宮と社名を改め現在に至りました。

菅原家勧請の宮 大分県主要天満宮

現在の本殿は明治28年に改築されましたが、近年痛み激しく平成7年社殿大改修・境内整備事業を行い、平成14年菅公千百年大祭にあたり、神楽殿・社務所・第二期境内整備などの事業を行いました。
今でも、その御利益の多大さから、市内県内は元より県外からの崇敬を集めております。大分県内主要天満宮として大分県学問の神として祀られています。 菅原道真公は25に御縁がある事より、全国の天満宮では25年ごとに式年祭が行われますが、福良天満宮でも平成14年10月25日~27日まで道真公の御子孫第39代目太宰府天満宮宮司西高辻信良様をお迎えして1100年大祭が行われました。

福良天満宮 御朱印帳

当社では、社殿と招福赤猫を刺繍された「限定の朱印帳」を授与しております。
御朱印帳・御朱印を希望される方はお参りの帰りにお求め下さい。通常サイズの黒と大判サイズのピンク・ヒノキ製に3種類があります)

ご朱印は、『福良天満宮』と『招霊赤猫社』の2種類に「季節御朱印」・「特別御朱印」・「限定御朱印」などがあります。情報はホームページに掲載しております。また、御朱印帳に必要な「猫バンド御守(赤または白)」・「御朱印帳ポーチ」も取揃えています。

 

「赤えと」について

臼杵市に鎮座する福良天満宮は方角では南に位置し、色では「赤色」で守護されます。また臼杵市には明治時代初期、福良平清水地区より発祥した「赤ねこ」と言う言葉が伝わります。商売の達人とも言われ、世の中のため人の為にと尽力活躍された大塚幸兵衛を始め臼杵商人を指す言葉です。 福良天満宮は、この「赤ねこ」の発祥地平清水の氏神様であります。赤色が縁起がよいとの事で赤色の幸運にあやかり、十二支の「赤い色の干支」を授与しております。

赤猫と御縁のある「人形工房かじか」の手捻りの為、一体毎に形・表情がそれぞれに異なります。 神社にて福運・幸運・開運の祈願をしております。一体の幸運でもよろしいですが、十二支すべて集める事で、最高の幸運を家庭にお運び下さい。